ヴァシコル物語
ヴァシコル バッタキャリアは、多くの人々がとうてい到達できない頂に、上り詰めたと言えるでしょう。彼の功績は数知れず、そして今も母国であるバングラデシュの障害者の生活向上のために力を注ぎ続けています。ヴァシコルは数え切れないほど多くの国際会議に、YPSAを代表して参加し、その功績が認められ、いくつかの賞も受賞しました。これは、彼がいかにして賞賛の少ない賭けに打ち勝ったかを伝える物語です。
私の名前はヴァシコル・バッタキャルアです。バングラデシュのチッタゴン出身の視覚障害者です。この度は私の人生のアップダウンや、喜び、悲しみなどをお話いたします。
私は1979年7月1日にある村で生まれました。父は公務員で母親は主婦です。兄弟が1人、そして私は結婚して、可愛い娘が1人います。
私の出身村には病院はなく、医師もいませんでした。 生まれてすぐ、私は鼻と口から出血し始めました。その時私の家族はどうしたらよいかわからず、2歳の時に私の目が見えていないことに気がつきました。
私が成長するにつれ、私の家族は私を学校へ通わせるかどうか、悩みました。バングラデシュでは、多くの人々は、視覚障害者は何もできない、教育を受けることはできないと考えているからです。私の家族はとても悔しい思いでした。父が、眼科医から、チッタゴンに視覚障害者特別支援小学校があると聞き、私はそこに通えることになりました。
小学校を卒業した後、見える子どもたちと一緒の中学校へ通いました。しかし、点字の教科書はなく、教師も視覚障害のある子どもへの教え方を知らなかったので、とても大変でした。中学校を卒業した後は、一般の高校へ通いました。 一般校へ通った長い年月の中で、私は視覚障害者のための設備が全く不足していることを痛感しました。視覚障害のある学生にとっては、点字教科書だけが唯一の教育の手段ですが、中学校と高校では、点字教科書はなく、わずかな書字用フレームか点字用紙のみでした。
高校卒業後、大学入学へ挑戦しましたが、全ての大学が、私の障害を理由に出願を拒絶しました。他の数人の視覚障害者と共に、ハンガーストライキを実施しました。そして突然大学は私たちの入学を許可しましたが、今度は設備不足の問題が持ち上がりました。大学の講師は点字について全く知識がなく、視覚障害のある学生への教え方も知りませんでした。数名の講師は協力的でしたが、そうでない講師もいました。例えば、ある日教室で私が点字板を使ってメモを取っていると、講師は私が遊んでいると勘違いし、遊ぶのを止めて、教室から出ていくように言いました。私は学部長に不満を訴え、その私を注意した講師に、私が遊んでいたのではなく、(点字で)メモを取っていたのだと、そのメモを実際に読み上げてみせました。その講師は、まるで魔法のようだととても驚いていました。
そのような困難にもかかわらず、数名の講師、家族、友人からの多大なサポートによって、チッタゴン大学を優秀な成績で卒業し、歴史の学位を取得しました。更に歴史学の修士号も取得しました。
そして遂に、自立するための準備も万端となり、就職する時期となりました。それは最も過酷な難題で、本当にごくわずかの視覚障害者だけが職に就くことができていました。そしてごくわずかの人だけが教育を受けることができていました。ほとんどの視覚障害者は道で物乞いをしていました。数人の教育を受けられた人が、盲学校の教師として働いていたり、弁護士をしていたり、NGOで働いたりしていました。もしも大学を出たとしても、仕事に就くことはごく稀でした。私も失業を味わいました。そして、理論的な学びだけでは仕事に就くには十分ではなく、技術的なスキルが必要だと気づきました。
私はダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業の4期生に選ばれました。2002年の8月から2003年の7月までの研修です。私は視覚障害者のためのICTに関する研修を受けました。そして、研修終了後、2004年2月にバンコクで開催されたフォローアップ研修にも参加しました。
2006年にDAISYコンソーシアムに紹介され、バンコクで開催されたDAISY国際指導者研修を修了し、 DAISY国際指導者となりました。私は現在バングラデシュ初のDAISYフォーカルパーソンとして働いています。また、2006年にタイのAPCDで3週間に渡り開催された、視覚障害者のためのICTコースにも参加しました。
2004年の9月から、Young Power in Social Action (YPSA),で活動をしています。現在プログラムマネージャー及びIRCD部(ICTと障害リソースセンター)のフォーカルパーソンの責務を担っています。そして、団体の障害問題に関するあらゆる活動に対する責任を負っています。
加えて、GAATES (Global Alliance on Accessible Technologies & Environments) の国代表や、NFOWD (障害者団体全国フォーラム)の全国ICTテーマ別グループのまとめ役なども務めています。 そのほか、首相オフィス管轄の、Access to Information (a2i) Programmeのウェブアクセシビリティのナショナルコンサルタントや、a2iプログラムに対して、障害と開発の課題についてカウンセリング、開発のためのICT、障害者のe-Accessibility 及び情報アクセシビリテティ、国内及び国際メディア関係者との綿密な関係の構築、ネットワーク作りなど様々な役目を担っています。NGOや当事者団体などのネットワーク団体である、チッタゴン障害者協会の事務局長に選ばれ、バングラデシュ視覚障害者協会の創立メンバーの1人でもあります。
現在多くの継続的な取り組みにおいて、私がリーダー的な役割を務めています。
昔は視覚障害のある生徒が教育を受けることは大変難しかったです。アクセシブルな教材の数も不十分でした。点字が唯一のアクセシブルなフォーマットでしたが、圧倒的に数が少なかったのです。
私は視覚障害のある生徒のため、教育への道を容易にするために活動してきました。DAISYは、まさに私が、その活動のために望んでいたものでした。DAISYスタンダードを使うことによって、全てのテキストブックをマルチメデイア音声図書に変換することができます。このフォーマットから、アクセシブルな電子書籍やデジタル点字書籍に変換でき、印刷物を読めない障害のある生徒や学習障害のある生徒にもアクセシブルなものになります。バングラデシュでは、障害のない人と、障害者の情報格差を埋めるため、国立デジタル音声図書館の設立が進んでいます。加えて、若い障害者を対象とした、職業スキルやICTスキル開発の研修をもっとやりたいと思っています。そうすれば、あらゆる職種の仕事に就くことができ、責務を果たすことができるようになります。
私の国では人口の10%が障害者で、約400万人が視覚障害者です。しかし、たった1%の視覚障害者だけが教育を受けることができます。特に、女性障害者の生活は大変厳しいものです。彼女たちは結婚や、就職、教育を受けるチャンスが全くありません。私の国では、ほとんどの視覚障害者は貧しい家庭の出身で、昔は視覚障害者の権利擁護のための良い団体もありませんでした。私たちは多くの問題や厄介な状況に直面していました。時々、私は驚きと共に、本当に数少ない人だけが、私たち視覚障害者のことを知っているのだと気付き、それは恥ずかしいことでした。しかしシナリオは、良い方向へ変わりつつあります。私たちは一緒にバリアのない世界を築くことができるでしょう。
ヴァシコルさんがYPSAを代表して受賞した賞の数々: