僕は平成15年8月21日の夜、第5期「ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業」の研修生として来日した。7ヶ国から来た7名の研修生は「自国の障害者の将来のため」という同じ夢を持って、協力しあいながらこの10ヶ月を過ごした。
年末年始に行われたホームスティで、日本の家族と出会った。僕の大阪のお父さんは下村憲正さんだ。一週間という短い期間だったが、10ヶ月の間で一番楽しい時を過ごした。天津の家族と一緒にいるような温かさを味わうことができて、本当にうれしかった。僕は一人っ子だが、大阪の家族にはお姉さんがいて、僕は末っ子になった。お姉さんは僕に「ドラえもん」という新しいニックネームをつけてくれた。
お正月だけでなく、個別研修中も大阪の家族と会う機会があったが、もっともっと一緒に過ごしたかった。大阪は僕の「第二の故郷」であり、下村さん一家は僕の日本の家族だ。帰国後も家族であり続けたいと思う。
僕は「一人っ子」で、ずっと両親と一緒に生活していた。一人暮らしの経験が全然なかったので、来日前はとても不安だった。日本滞在中は日常生活でさえ、自立につながるステップだった。買い物・洗濯・掃除・片付けなど、全てがよい経験になったし、自分一人でも色んなことができる事を実感できて嬉しかった。
10ヶ月の「生活訓練」のおかげで、子供っぽかった僕も少し「大人」になり、帰国後の仕事・勉強・生活に対して自信を持てるようになった。
日本で研修を受けるのに、「日本語が話せない!」のは大変なバリアだ。僕は3ヶ月の語学研修を一生懸命頑張った。しかし、記憶力が良くないせいか、3ヶ月間では自分が期待したほどうまくならなかった。僕は勉強方法を工夫した。日本語の勉強で、漢字の読みを覚えることが一番難しい。僕は「駅名や地名から学ぶ」ということを思いついた。楽しんで覚えていくうちに漢字の読みが段々できるようになってきた。また、外出するとき、駅名や地名を知っていると便利で、まさに一石二鳥だった。
長崎県立盲学校と筑波大学付属盲学校で日本の盲学校の教育システムについて勉強をした。
長崎県立盲学校では、自分の専門である理療科の授業に入って、「視覚障害児童個別教育」案内・外来治療室の運営とカルテ管理について学んだ。その中でも、高等部普通科の物理授業の見学が一番印象に残っている。
中国と比較すると、理療科や大学の教育システムは日本の方が進んでいるように思う。また、「義務教育」においても「個別指導」がなされている点は、中国でも取り入れたいと思った。
思い出深いのは長崎盲学校の寄宿舎で生活したことだ。指導員の先生や生徒と一緒に過ごした3週間は本当に楽しかった。それだけに東京に戻る日はとてもさびしかった。最後の夜の食事は中華料理だった。大好きなメニューなのに、胸がいっぱいで味がわからなかった。また、食事中はいつもにぎやかなのに、その日は誰も話をしようとはせず、とても静かだった。就寝前の点呼の時に改めてみんなに最後の挨拶をした。先月、同じ金曜日の夜に、同じホールで、同じように挨拶をした。でも、先月は「始めまして!」、今は「さようなら。」。気持ちはぜんぜん違った。
研修期間中、長崎だけでなく色々な場所で日本人の良い友達ができた。私達は一人では十分に活動できない。人と人とのネットワークの構築が重要だ。結ばれた友情はこれからも大切にしたい。
中国では、点字出版物や音声図書はまだ少なく、視覚障害者のパソコン教育やネットワークも整っていない。それで、それらを習得することを研修目的の一つとした。
点字印刷の研修は、桜雲会で行った。一般的な印刷・校正・製版、それにワード・エクセルの使い方とネットワーク・スクリーンリーダーの基本的な使用法などを研修した。桜雲会では点字出版部の職員と一緒に仕事をする機会があり、まるでサラリーマンになったような気分だった。このような経験をしたことも良い思い出になっている。
デジタル録音図書製作システムは、日本ライトハウス盲人情報文化センターと日本障害者リハビリテーション協会情報センターで学んだ。今では、自分でデイジー録音やデータ編集等の基本的な操作ができるようになって、本当に嬉しい。
子供の時からずっと水泳をやってみたいと思っていたが、語学研修中にやっとその夢が叶った。3ヶ月練習して少し泳げるようになったが、その後半年ぐらいやってないので泳ぎ方を忘れてしまったかもしれない。時間を作って、また泳ぎたい!
スキー研修は年末に行われたが、運動不足の僕はちょっと不安だった。実際、初めは転んでばかりだった。先生の熱心な指導のおかげで少し滑れるようになり、スキーが楽しくなった。機会があれば、もう一回滑りたい!
日本に来て、乗り物に興味を持つようになった。乗り物なら何でも好きだが、特に路線バスや鉄道が大好きでほとんど毎日外出した。電車に乗る時はいつも先頭車両、バスに乗る時は運転手のすぐ後ろに座った。電車の車体もたくさん覚えたが、それだけではない。僕はこれまで乗ったほとんどの路線の車内アナウンスを暗記した。
乗車体験はただ楽しいだけでなく、先進的なバリアフリー設備を経験するよい機会でもあった。天津が国際的な大都市として発展していくために、この経験をいつか役立てたい。
僕の日本語の先生である青木陽子先生は、自身も視覚障害をおもちだが、天津市内で、視覚障害者日本語訓練学校を設立して、中国の視覚障害者に無料で日本語を教えている。青木先生の国際的な考え方に、僕はいつも感銘を受けている。
帰国後は、臨床の仕事や東洋医学の勉強を続けながら、青木先生と協力して、中国だけでなく全アジアの視覚障害者のために働きたい。
いよいよ帰国の時が近づいてきた。日本で過ごした時間はとても短く感じられた。今、寂しい気持ちで胸がいっぱいだ。
沢山できた日本の友達、ダスキン・広げよう愛の輪運動基金の皆様、リハ協や研修先の皆様に、報告書の最後に心からお礼を申し上げたい。
「皆様、色々とお世話になりました。本当に有難うございました!僕のことを忘れないで下さいね!
大阪のお父さん・お母さん、天津の息子を忘れないで下さい!お姉さん達も可愛い弟を忘れないでね!」
日本で出会った皆様からいただいた愛と慈しみをお返しするため、これからも勉強や仕事に頑張ります。