フィリピンのろう者コミュニティにはリーダーシップを発揮できる人材がほとんどいません。わたしはフィリピンで、カビテろう者協会や、ろう者のネットワークなどで活動し、ろう者の青年協会を設立したいと常に願っていました。私はフィリピンのろう協会の会長からダスキンの研修に応募することを勧められ、結果的に第8期の研修生として受け入れられることとなりました。
2006年9月1日に関西国際空港に到着、一人で海外へ出かけたのはこのときが初めてでした。この晩は空港周辺のホテルに泊まることになりましたが、施設が非常に便利にできているのに驚きました。障害者、お年寄り、女性、子供などが使いやすいようにできているのです。当初、わたしは第8期のダスキン研修生として日本に来たという実感がなく、日本についてはっきりしたイメージがありませんでしたが、日本に滞在するにつれ、だんだんと日本の技術や知識、また日本のろう者の持っている知識や技術は、フィリピンで見たことも聞いたこともないものであることを実感しました。また、日本の人たちは非常に心が広く、ユーモアもあると感じました。
日本に着いて最初の3ヶ月は日本語と日本手話を勉強しました。日本語は非常に難しく、習った言葉を全部覚えるのは至難の業でした。辛抱強く教えてくださった日本語の先生方に感謝し、また素晴らしい日本手話を教えてくださった先生方にも、感謝したいと思います。
新年は、福岡の吉野幸代さんのお宅でお世話になりました。お父様は私と同様ろうですが、まるで実の父のように楽しくお話ししました。テレビを見たり、家事をしたり、夜寝るときも、福岡はずっと寒かったです。幸代さんは青年活動に関わったときの話をしてくださいました。また、他のろう者のお友達とともに、佐賀県を案内してくださり、わたしの好きな海やビーチに行ったり、レストランでシーフードを楽しんだりして過ごしました。元旦の夜は、長崎に行き、幸代さんの母方の親戚を訪ねました。お正月は周囲も非常に静かで、親戚と食卓を囲み、大変おいしいお食事をいただきました。シーフードはわたしの大好物です。翌日は長崎でろう者の人たちに会い、散歩したり、第二次世界大戦の慰霊碑のところで写真撮影したりしました。福岡を離れる日が近くなって、鏡餅の作り方も教わりました。吉野さんのご家族のユーモア、そして一緒にしたことのすべてを、私はずっと忘れないでしょう。
1月の最後の2日間、新潟で生まれて初めてスキーをしました。雪で遊ぶのは非常に楽しかったです。小さいころから、テレビで雪を見たことはありましたが、本当に初めて雪に触れることになったわけです。どこもかしこも雪景色というのは想像できない世界でした。また、はらはらと雪の降ってくる様子も新しくて変な気分でした。初日は、女性の先生がついてくださってスキーのステップを教わりましたが、何度も転んで足が痛くなりました。滑るのもけっこう怖かったですが、他の研修生が「すごく楽しい」というので、恐怖心を克服し自信をもって滑ろうと思ったら、うまく滑れるようになりました。写真もたくさん撮りました。雪を見た瞬間のことはずっと忘れないでしょう。環境のことにもっと興味をもつようになりましたし、フィリピンに帰ったら障害者のことをよく知らない人たちにも、目が見えなくても、体に障害があってもスキーができるのだということを話したいと思います。わたしたちをサポートしてくださったダスキン愛の輪財団そして日本障害者リハビリテーション協会のみなさん、そしてスキーの先生方に心からの感謝をしたいと思います。
11月3日から5日の間、第40回全国ろうあ青年研究討論会と第3回アジア太平洋ろう青年キャンプが宮崎で同時開催されました。わたしの日本手話はまだそれほど上達していませんでしたが、介助なしで初めて飛行機に乗り、どこでもできるだけ自分で行けるように努めました。会場ではろう者の青年にもたくさん会いました。また、わたしのフィリピンの友人も大勢参加していました。会場にはたくさんのワークショップやアクティビティがあり、私はボランティアとしてお年寄りのためのワークショップにも参加しました。全日本ろうあ連盟の青年部長である嶋本さんにお会いしました。青年部の役員たちは非常に真面目に責任感をもってイベントに取り組んでおられるように見えました。わたしはろうの青年たちにいろいろな情報を提供するワークショップに参加しましたが、青年向けのさまざまな活動が紹介されており非常に興味深かったです。これに影響を受けて、大会に参加していた私のフィリピンの友人4人は、フィリピンに帰国して2007年の5月に、フィリピンろう連盟の青年部を発足させています。
神戸、淡路、京都、大阪では、さまざまな社会福祉システムを見学するチャンスに恵まれました。情報、技術、サービスも非常にアクセシブルになっていました。ろう者のお年寄りも、手話通訳を予約して一緒に出かけることで、簡単にあちこちに外出できます。毎週土日に青年部はミーティングを行ったり、活動計画を立てたりします。私は予算立てや、会員費、購読紙などについての講義に参加しました。嶋本さんは若いろう者の人たちのほとんどが、青年部に入会しようとしないと言っていました。全日本ろうあ連盟の久松さんも、1月9日と10日、わたしがワークショップに参加した際に同じことを言っていました。わたしはまた、全日本ろうあ連盟の理事会のネットワークを見学するチャンスにも恵まれました。リーダーは皆、気概をもってろう者のコミュニティと共に働いています。フィリピンではリーダー達がこういう風に自らリーダーシップを取って引っ張っていく自信に欠けているので非常に心配です。また、日本では、さまざまな福祉事務所を見学しましたが、運営に携わっている人たち自身がろう者の場合も多々ありました。また、多くの人たちが地元コミュニティの情報アクセスを改善しようと頑張っており、手話通訳を雇っていました。フィリピンでは、政府にそういう意識がないために、ろう者のほとんどが通訳を雇う余裕がないのが現状です。2週間、淡路にいた間、お年寄りのろう者の方々の生活を見学しましたが、通訳のサービスによって生活が楽にできるようになっていました。聴覚障害のほかに知的障害や肢体障害、視覚障害、精神障害などがある重度のろう者が滞在しているなかまの里も見学しました。そこに滞在している人たちは簡単な作業に従事して収入を得ていました。フィリピンのろう者の94%は仕事がなく、生き延びるのに大変苦労しています。彼らの権利を守り、政府や企業に訴えてろう者のニーズについて理解してもらえるよう、働きかけていきたいと思います。全日本ろうあ連盟で学んださまざまな業務や活動を通じ、青年部とフィリピンのろうあ連盟とが協力し、フィリピンのろうコミュニティのために最善を尽くすことが可能なのではないかと感じるようになりました。
わたしは他の障害を持った人たちに会ったことがなく、当初、他の研修生が私を受け入れてくれるのかどうか、自信がありませんでした。私はろう者の世界で育ってきましたが、今は異なる障害者の世界を知り、彼らの文化についても学びました。研修期間中、他の研修生と私は一緒に食事をしたり、買い物に行ったり、いろいろな場所に行ってみたりして、おおいに笑い合えるようになりました。まるこさんとサミスさんがわたしの回りで何が起こっているかわかるようにいつも手話で通訳をして手助けしてくれたことに感謝したいと思います。私たちは一緒に遊び、まるで実の兄弟か姉妹であるかのような強い友情を感じました。ゴールデンウィークの5月1日から5日まで、西宮と広島に泊まり、一緒に料理したり洗濯したりして、素晴らしい、忘れ得ないひとときを過ごしました。私の大切な友人の皆さん、どうぞ私たちが分かち合った日本の手話を忘れないでください。これから国に帰ったら、皆さんのことをとても懐かしく思うことでしょう。
フィリピンに帰ったら、ろう者のコミュニティに情報提供し、社会の意識向上のためになるように、ろう者の青年の活動を始めたいと思います。フィリピンでは残念なことにろう者はほとんど情報を手に入れることができず、ろう者の生活も非常に不便です。日本で学んだことをろう者の友人に伝え、フィリピンのろうあ連盟と協力して新しいプロジェクトを企画し、教育、就労、住居サービス、通訳サービスなどを提供する活動を始めたいと思います。そしてどんなに大変であっても、ベストを尽くしたいと思います。楽でないことはわかっていますが、このような活動は非常に重要です。国のためにできるだけのことをしたいと思います。
第8期ダスキン研修プログラムの研修生として選んでいただいたことを非常に光栄に思っています。いろいろなことをご存知で経験豊かな日本の方々にお会いすることで、わたしはたくさんのことを学び吸収し、知識を身につけることができました。ダスキン・広げよう愛の輪運動基金の皆様そして日本障害者リハビリテーション協会のスタッフの皆様に深く御礼を申し上げたいと思います。また、あらゆる局面でお世話になった那須さんにも御礼を申し上げます。ときどき思っていることが伝わらず誤解を招いた場面もありましたが、非常に忍耐強く接していただいて、難しい局面も切り抜けることができました。また、研修中、わたしのサポートに努めてくださった皆様にも御礼申し上げます。日本のこと、そして、お会いした方々のことはずっと忘れません。皆さまの上に神様のお恵みが豊かにありますように! サラマット・ポー(有難うございました)。