生まれて初めて飛行機に乗り海外へ行くのは大変怖かったのですが、私には夢もやり遂げたいこともありました。祖国フィリピンのためだけでなく、アジア全体のための若いリーダーの一人になりたいという望みです。そういうわけで日本ではいったいどういう生活になるのだろうと非常に心配でもあったのですが、まずは自分を成長させるために一歩を踏み出しました。大きな希望と力を胸に、ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業第9期生の一人として日本に到着しました。
しかし言葉を知らずに冒険に踏み出すのはなかなか難しいことでした。たとえばレストランで何か注文したくとも、お店の人が何を言っているかわからないので注文できないのです。私は目が見えないので、何を食べるかわかる前に味見しないとなりません。いずれにせよ、日本の食事はどこでも大変おいしかったので、問題にはなりませんでした。
9月から10月の間は日本語研修がありました。日本語の勉強は大変興味深いです。しかし、当初から日本語はまったくわからなかったため、発音が難しくてたまりませんでした。「ズ」、「ゾ」、「ジュ」、「ラ」、「レ」などの発音が嫌で仕方ありませんでした。英語ができていると思っても英語の発音は日本語とはまったく違うので、日本語の発音を懸命に勉強せざるを得ませんでした。しかし言葉を覚える段にいたっては、生来話好きなのが役にたち、大して苦労せずに覚えることができました。また、毎週、レポート書きの宿題がありました。これも、日本語のつづりがわからないので四苦八苦しました。つづりも発音もわからずにレポートを書かなければならない苦労を考えてみてください。「お」と「う」、「い」と「え」の母音を間違えてばかりいました。そんなわけで、毎晩午前1時から3時まで、日本語の練習と会話に時間を費やしました。
研修生たちはみんな、ナーバスで、毎日心配ばかりしていました。わたしはとくに日本語の点字がちゃんとできるかどうか心配でした。日本語能力試験を受けるときには読み上げてくれる人が必要だ、と訴えたかったのですが、どんなに言っても日本語の試験は点字で受験しなくてはなりませんでした。日本語の点字にそれまで費やした時間といえば、わずか10時間程度。点字ができないことはわかりきっていました。試験は決まった時間の範囲内で終えなければいけませんから、点字がじゅうぶん早く読めないために不合格に終わることもじゅうぶん有り得ると思いました。これはよくも悪くも忘れられない思い出になりました。いつかまた日本語能力試験を受けることがあるとしたら、それまでにシステムが変わっていることを望みたいです。外国人が点字、ましてや日本語の点字を使えないことがあるという事実について考慮していただき、コンピュータを用意するか、少なくとも読み上げる人を2人配備していただければと思います。二人必要なのは、一人が読み上げ、もう一人がメモを取らなくてはならないからです。視覚障害者は絶対カンニングできませんから、二人の介助者をつけるからといっても心配無用だと思います。
佐賀県ではホームステイを通じて日本の文化を体験しました。なんと私のホスト・ファミリーのお姉さんと私は以前会ったことがあったのですが、佐賀を発つ前日まで、前に会議で会ったことがあることにお互い気がつきませんでした。このお姉さんは当の会議で会議場までわたしを案内してくれた人でした。会議があったのが9月で、当時の私はまったく日本語が分からなかったのも、お互い気がつかなかった理由のひとつと思います。ホスト・ファミリーはまるで本当の家族のようでした。日本で家族をもてたことは大変嬉しかったです。日本の人たちはみんな非常に親切だと思います。わたしのホスト・ファミリーは英語を話しませんでしたが、意思疎通には別段問題なかったのでうれしかったです。このころまでに私は日本語ができるという気持ちにもなっていました。
個別研修では、さまざまな場所を訪問しいろいろな人に出会いました。だんだんにいろいろなことを教わり、忘れ得ない思い出が多くできました。
特に忘れられないのが、はじめて一人で移動したときのことです。浜松に行く必要があったのですが、日本語があまりできなかったので恐くてたまりませんでした。しかし結果的にはちゃんと移動でき、浜松での3日間の研修も無事こなして、東京に新しい気持ちで戻ってきました。それからは自分でどこにでも行くようになりました。今では、一人でどこにでも行けるという気持ちになりました。
研修中いちばん長い時間を過ごしたのは神奈川の光友会と大阪の日本ライトハウスでした。知的障害者の人たちが働いているのにはびっくりしました。運動神経に障害のある、かなり重度の障害者の人にも、たくさん楽しい活動が用意されていました。神奈川県を拠点とする障害者は自立生活を送ることができ、普通の人と同等に扱われます。研修のあと、私は前にもまして夢をもち、祖国でやりたいことがたくさん出てくるようになりました。私の国の障害者が、神奈川の障害者のように生活できるような環境を作りたいです。物事を変えていくのは生半可な努力でないことはわかっていますが、前向きの意思と決意があれば、かならずやフィリピンでも実現できると思います。また、研修が成功した理由のひとつとして、コーディネータの方が、私が研修内容をよく理解するように努めてくださったことが大きかったと思います。光友会の見原さんは英語があまりわからず、私も日本語を話したり理解したりが難しかったのですが、研修を始める前にかならず、その日の研修内容を話し合い、見原さんはどうしてその日にある場所に行くのか、理由をちゃんと説明してくださいました。見原さんが日本語をわかるように説明してくださらなかったら、私の理解力ではおそらく研修はまったくうまくいかなかったでしょう。事実、研修の最中にはわからない言葉が頻出したので、それについていこうと私の日本語も飛躍的に向上しました。
また、私は日本の人たちのボランティア・サービスにもいたく感心したので、同じことをやってみたいと思うようになっていたところ、戸山サンライズの隣にある障害者福祉センターの作業所がボランティア活動を許してくださったので感激しました。自分が必要とされていると感じることができ、また作業所の方々も私といっしょにいてうれしい様子でした。一緒に働くことによって喜びも友人関係も生まれました。研修には友人関係が必要不可欠だと思います。日本の組織はお互いをよく知り、問題があるとお互いをサポートする体制や意識があって、お互い非常に強く結びついていると思います。
研修中に私の心には2つ、これからもずっと考えることになるであろう問いが芽生えました。「何よりも大切なものはなにか」、そして「一人の人間であるとは、どういうことか」という問いです。答えがわかれば、障害者であっても普通に暮らすことができ、愛をもって人と友人同士になり幸せに暮らしていけるでしょう。答えを見つけるのはとても難しいです。しかし日本では障害者であっても人間として認められ、障害があっても他の人と同じように権利を認められて暮らすことができます。障害者であっても愛し愛される権利、そして人を敬い、敬われる権利があるのです。
個別研修の最終日には、大きなプロジェクトを成し遂げたという気持ちになりました。東京に戻ったときには、重い荷物を背負って帰ってきたような気になったものです。たくさんの体験、知識、希望と新しい夢のつまった荷物です。そして、何でもできる、という新しい自信も芽生えました。今の私は空に向かって高く、さらに高く、飛んでいくことができます。飛ぶための力強い翼を得たからです。今、わたしの将来にはビジョンがあります。そして心には、新しい目的とゴールが燃えています。
長い旅路のあと、私たち研修生はまた一堂に集いました。みんなが良いニュースや経験を持ち帰りました。
これまでの月日を振り返って、一番よかったことは自分自身に起きた変化だと思います。私は大きく変わりました。強さも、自信も、哲学も、考え方も変わりました。前のわたしがどれだけ残っているか、よくわからないほどです。今の私は以前よりよい人間になったと思っています。
日本での経験は一生涯忘れません。私の一番の思い出として永遠に残るでしょう。私の友人、そして私が学んだことすべてに対して、この場をお借りしてわたしと祖国のフィリピンに自由を与えてくださったことを感謝したいと思います。このよい関係がいつまでも終わらないことを願っています。