すばらしい経験と成長:心を開いた私に届いた日本の人たちの贈り物
私にとって海外は初めての経験でした。2009年4月に関西空港に到着し、搭乗スタッフの男性が、驚いたことに日本手話を使って入管そのほかの手続きを手伝ってくれました。その後、ダスキンの他の研修生と合流しました。皆、違う国から来ており、宗教も違い、障害もさまざまです。日本のろう者が日本手話で話しかけてきたときには、どう意思疎通してよいか分からず心配になりました。また、たくさんの日本人が貧しく、家もなく、東京の道端で寝泊りしているのを見て大変驚きました。日本は豊かな国で生活水準も高いと思っていたので、ホームレスの人々がいるというのは驚きでした。
生まれて初めて日本語の読み書きを勉強することになりましたが大変難しく、ときには勉強が嫌になりました。三人の女性の先生が指導に当たり、非常に忍耐強く、常に私をサポートし励ましてくださいました。だんだんに元気が出てきて、読み書きが上達するまで勉強に集中することができ、漢字を含め100語くらいの日本語の文章は読めるようになりました。日本手話のクラスでは、ろうの先生とマレーシア手話を使って交流することはほとんどありませんでした。先生が、授業中のマレーシア手話は禁止だと仰ったからです。というわけで、マレーシア手話は箱にしまってフタを閉め、日本手話の勉強に集中しました。日本手話を使って日本のろう者と交流する機会を得ただけでなく、非常に興味深い経験となりました。そして、三ヶ月後には、私の日本手話も上達しました。
新年は筑波で8日間、ろう者の末森明夫さんのお宅でホームステイを経験しました。末森さんは4人家族で、ホームステイさせていただくことにワクワクしました。末森さんはアメリカ手話および指文字ができ、私たちの会話は日本手話で行ないました。ろう文化、日本の文化と歴史、食べ物、その他のトピックについていろいろ学ぶことができたのは素晴らしい体験でした。また、日本とマレーシアの違いについても話し合いました。末森さんのお宅には犬と猫がおり、触るのが楽しかったです。
2009年1月にはスキー研修のため、他のダスキン研修生やその他の人たちと一緒に新潟県へ行き、三泊四日滞在しました。本物のきれいな雪が山々を覆っているのを見て大変興奮しました。初めて雪を触ってみたところ、冷蔵庫のような感覚でした。車いすのダスキンの研修生も特別なスキーを使ってスキーを楽しんでいました。肢体障害のある人にとっては大変便利です。山には、まず女性のインストラクターについてもらってリフトで登りました。リフトの高さと、山へ奥深く入っていくのを見て最初は怖く感じました。 しかしその後スキーをはいたままステップを踏む方法を教えていただき、数時間後には自分でスキーできるようになりました。ときにはスピードが速くなって4回も転んだりもしましたが、とても楽しい経験でした。
日本ASL協会では一か月、個別研修を受けました。パワーポイントを使った基本的なプレゼンテーション作成方法を学び、毎週日本語でレポートを書きました。非常に難しく、日本語のレポートではいくつも間違いをしました。また、感情や思考、行動などの繊細な内容を書くのに私の日本語は十分ではありませんでした。そのようなわけで一か月まったく外に出ることができないくらい時間の余裕がありませんでした。本番のプレゼンの前には必ず模擬のプレゼンを行ないました。高草さんのアドバイスによって自分の弱いところが分かった後は、自分で弱いところを改善し問題解決までもっていくことができました。高草さんは私の研修に対しては非常に厳しい態度で臨み、私もしっかりしたプレゼンを作成するために覚悟を決めてかかりました。模擬のプレゼンの後は、内容が改善できたことが分かったので嬉しく、日本の人たちに質問されても万全に答える準備ができました。
NPO法人デフNet.かごしまでは一か月の研修を受けました。会長はろう者の澤田利絵さんで、鹿児島で初めてろうコミュニティから新しいNPOを立ち上げたことを誇りとしておられました。澤田さんからはいろいろなことを学び、前向きな気持ちになりました。ここでは手話のクラス、ろう児のケアセンター、また、ろう者、また他の障害を持つ人たちが一緒にカップケーキを焼いて販売しているベーカリーコーナーなどがありました。私もこれらのプログラムに参加し、初めて日本手話を教える経験もしました。生徒さんたちには絵を見せて、話を作ってもらい、そこから身体の動き、顔の表情、CLなどを学んでもらいました。ろうの先生からは、大変良い指導法だとしてお褒めの言葉をいただきました。
淡路では、高齢ろう者の老人ホームに数日滞在し、介助を体験しました。最初は男性ろう者の入浴介助にためらいがありましたが、大変良い経験でした。施設は大変便利で、エレベーター、テレビ、車いす用のトイレなどの設備が完備されていました。施設に滞在している人たちは、お互い会話をするのが楽しく心安いと言っていました。マレーシアには、ろうのお年寄りのホームとして特別に作られた施設はありません。ここのホームには94歳になる男性がおり、会話もし、自分で歩き、入浴し、食事することができていたことに大変驚きまた尊敬の念を覚えました。
2009年7月2日現在、日本では手話通訳士が2,300人も登録されていますが、マレーシアには手話通訳ができる人は数人しかいません。国立障害者リハビリテーションセンターでは2週間にわたり手話通訳および手話での基礎的な教え方やその技法について学びました。小薗江聡先生が単語、音声、文法など手話について説明してくださり、また手話だけでなく、手話の言語学的な知識についても教わった結果、手話を教えるうえでこうした知識が不可欠であることが分かるようになりました。研修の最後では、模擬授業により、一年生にマレーシア手話を教えました。日本に来てからというもの日本手話しか使っておらず、最初はマレーシアを思い出すのが難しく模擬授業でもうまく教えられなかったりということもありました。しかし授業の後、小薗江先生が授業で気がついた点をいろいろ指摘してくださったため、うまく教えられなかった点をどのように改善したらよいかがよく分かるようになりました。先ほど、手話通訳ができる人はマレーシアには少ししかいないと書きましたが、そのようなわけでどうして日本には2,000人を超える手話通訳者がいるのか疑問に思っていました。しかしこの研修を受けて、手話通訳者の能力の問題ではなく、どのように手話通訳が教育されているかの問題であることに思い至りました。マレーシアに帰った暁には、YMCAで基本のマレーシア手話クラスの講師として働きたいと思います。まずは、基本的な手話授業の指導方法を改善するところから始めるのが願いです。
日本に来る前の私は、自分の将来が見えず、心に靄がかかったように不安をたくさん抱えていました。日本で新しい研修に臨む時も同じでした。例えば、プレゼンテーション研修が始まった時、私の心は不安でいっぱいでした。実際にプレゼンの準備を始めても、失敗続きで不安が増すばかりでした。マレーシアでは何かミスをしてしまうと、周りからひどく叱られ、すっかり自信を失くすことがしばしばありました。しかし、日本では周りの人たちが失敗を肯定的に受け止め、私を叱るのではなく、多くのアドバイスをくださいました。そのおかげで、失敗は自分を成長させるチャンスであることに気付き、失敗を恐れることがなくなりました。そして迎えたプレゼンテーション本番では、観客から大変な高評価をいただいたのです。このように、「失敗から学び、成長していく」という経験を繰り返していく中で、いつしか私の中にあった不安が消えていきました。そして今、将来に向けて多くの夢を持っています。閉ざされていた私の心の扉が開き、光が差し込んできたかのようでした。帰国後も、この扉を閉ざすことなく、いつも前向きな気持ちで進んでいきたいと思います。
ダスキン研修の第10期生として選抜してくださった日本障害者リハビリテーション協会および、広げよう愛の輪運動基金に心から感謝の言葉を捧げたいと思います。また、10か月の間さまざまな喜びと経験を分かち合ったダスキンの他の研修生にも感謝します。また、初めての私の渡航を許し、私を信頼してくれた家族に感謝したいと思います。