Duskin Leadership Training in Japan

最終レポート

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ナンギオ・エティカ・ランギランギ(ナンギオ・エヴァ)のファイナルレポート

私の日本での日々

はじめに

私の名前はナンギオ・エティカ・ランギランギといいます。フィジーの首都スバで生まれ育ち、両親と暮らしています。両親はヨーロッパ、インド、フィジー系の血を引いています。兄弟姉妹が12人おり、片親の違う兄弟姉妹もいます。現在私は24歳で、これまでフィジー障害者協会とフィジーろう協会で働いてきました。

去年、フィジー障害者協会の会長からダスキンの研修プログラム参加に応募するように促されました。実はそれまでに何度もトライしていましたが、一度も通っていませんでした。もうあきらめようかと思っていたところ、会長や私のように障害のある同僚から、もう一度応募してみてはどうかと勧められ、これを最後にしようと心に決めて再応募してみました。締切が迫っていたので、必死で応募用紙を書きました。後日、ダスキン愛の輪運動基金より、研修生の一人として選ばれたという報せを受けてたいへん驚きました。

日本での体験

日本での生活がどうであったか、どう日本語を身に付けたか、また20代であたため始めた「日の昇る国日本に行く」という夢が実際に実現してどうであったか、お話ししたいと思います。

まず日本語の体験と、キャリアアップのためのスキルを身に付けるためにどのような経験をしたか、お話ししましょう。日本ではまず、フィジーにはない「寒い」という皮膚感覚を初めて経験しました。日本食を食べるのも、日本語を書くのも、日本手話での意思疎通も初めての経験でした。個人的に、温暖なフィジーのような気候が、慣れているので好きです。日本では、レポートを書くのが非常にストレスとなり、あまりにストレスが溜まったのでフィジーに帰りたくなりました。もう研修をあきらめて帰国しようと思っていたとき、フィジー障害者協会から一通のEメールを受け取りました。協会のメールにはあたたかい励ましの言葉と、問題が小さかろうと大きかろうと自分のベストを尽くすように、と書いてありました。それを読んで、「ああ神様が、私がフィジーの人々のために役立つように、と思ってくださったためにこのメールにつながったのだ」と感じました。私はフィジーの人たち、なかでも障害者の人たちにとって重要な役目を負うことになるのだと思います。このEメールを読んで泣けてしまいました。やっと前向きな気持ちを取り戻すことができ、日本障害者リハビリテーション協会での研修を続ける気持ちになりました。日本語の読み書きもうまくできなかったのですが、何とか研修を乗り切ろうとベストを尽くしました。日本の社会はいろいろと難しいこともありますが、それでも私は日本が大好きになりました。

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ホームステイとスキー研修

1.ホームステイ

私のホームステイ先の溝口夫妻は宮崎県都城市の南に住んでおられ、私にとっては伝統的な日本の家を訪問する初めての機会でした。溝口夫妻は私をさまざまな場所に連れて行ってくださいました。これらの場所は、忘れがたいものばかりです。また、ご家族の日々の生活がどのようなものであるかを見せてくださいました。このホームステイでは、たくさんの素晴らしい思い出ができました。私の美しい太平洋諸島に戻ったとき、皆に伝えることになるでしょう。

溝口さんはまずホームステイの企画として最初から決まっていたプログラムに私を連れていってくださいました。ろうの数家族が集まり、パーティーをしました。その場にいた子どもたちに何かしたいことがあるか聞かれたので、私は有名な観光地を見てみたいと答えました。このときはおめでたいお正月の時期でしたから、観光するにはちょうどよい時期でした。

溝口夫妻が私と那須さんを迎えに宮崎空港まで迎えに来てくださって本当に嬉しかったです。また、ミスター溝口はたいへん親切に、私にいろいろなことを教えてくださいました。ミセス溝口はいつも笑顔を絶やさない方で、よく私の日本語の間違いを正してくださいました。

宮崎の美しい景色を見せていただいて本当に幸運でした。溝口夫妻、ご夫妻のご両親、ご友人の皆さんには心より御礼を申し上げます。

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2.スキーの経験

1月の下旬、新潟県の越後湯沢に行きました。大量の雪と氷の中でのスキーは、フィジーではもちろん経験したことのない、私にとってはまったく初めての経験でした。スキーは一生涯忘れられない楽しい思い出となりました。うまく滑ることができるまで教えてくださったインストラクターの先生に感謝します。しょっちゅう転んだのでくたびれましたが、とても楽しかったです。この日はたいへん寒かったのですが、ダスキン研修生の仲間と一緒に一日中スキーを楽しみました。

個人研修とワークショップ

2月から5月の間、大阪のNPO法人 CS障害者放送統一機構「目で聴くテレビ」において研修を受けました。手話ニュース(手話キャスター)、ニュース動画の編集と字幕作成について学び、たくさんの貴重な情報を得ることができました。

「目で聴くテレビ」のことを深く学ぶことができ、たいへん嬉しかったです。メディアについての知識を深められるようにと私をサポートしてくださった柳さん、田原さんに感謝したいと思います。「目で聴くテレビ」での研修のあと、兵庫聴覚障害者協会を訪問し、事務局長の嶋本さんにお会いしました。嶋本さんはろう者であり、権利擁護に関わる活動家として日本で活躍していらっしゃる人です。以前に全日本ろうあ連盟青年部のビデオなどで嶋本さんをお見かけしたことを思い出しました。私の友人の一人も嶋本さんのことを話していたことがあります。兵庫ではほかにもさまざまな機関を訪問し、手話・障害者・就業支援センター・障害を持つ高齢者・聴覚や視覚障害者の通訳者などについても学びました。また、私は研修の途中で歯が痛くなってしまったのですが、嶋本さんが歯医者さんを探してくださいました。嶋本さんにはこのことについても感謝しなければなりません。歯医者さんには、甘い物を食べ過ぎると歯が悪くなるから注意するようにと言われました。

個別研修のあとは、東京に戻って集団研修に参加しました。ここでは様々なワークショップがあり、それまで参加した中でもっとも素晴らしいワークショップでした。ワークショップでは私の興味のあったエンパワメント、リーダーシップ、コミュニケーション、チームワーク、企画書の書き方、団体運営などについて学びました。日本での教え方はたいへん気に入りました。フィジーに帰ってワークショップを企画するときに、こうした教え方を伝えたいと思います。講義はすべて、知識を深めるのにたいへん役立ちました。私の人生に大きな改善、改革をもたらした日本を私はずっと忘れません。

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研修後、太平洋諸島地域での私の目標

1.フィジーにおけるアジア太平洋障害フォーラムの研修講師として働きます。また、ユニセフの同地域の大使としてボランティアとしてパートタイムで働きたいと思っています。

2.本研修後の私の目的は、地元のろうコミュニティに戻り、日本で得た経験とスキルをコミュニティの人たちと分かち合うことです。私の経験したことは国連の障害者権利条約の内容に関わることであり、また私のユニセフの地域大使としての役割の一環としても重要なことなので、障害種別を問わずフィジーのさまざまな障害者団体と分かち合っていきたいと思っています。

世界ろう連盟はオセアニア地域のろう団体の設立に同意したので、私は日本で得た知識を太平洋州すべてのろうコミュニティに伝えたいと思っています。より多くの太平洋諸島・諸国が権利条約に批准することを願っています。フィジー障害者協会とフィジーろう協会で働いていた頃から、私は多くの権利擁護活動やボランティア活動に携わっていました。

3.太平洋障害フォーラムで働き、情報とサポートを集めて太平洋諸島の他地域のろうの人たちに伝え、彼らが自身のろう連盟、ろう協会、通訳者協会を地元で設立し、すべての人たちがお互いにコミュニケーションできるようサポートしたいと思っています。太平洋諸島地域のろうの人の一部はすでに独自のろう協会や障害者協会に属しているので、フェイスブック、メール、ビデオ通話などで情報をシェアすることも今後は考えることになるでしょう。ろうの文化に対する社会意識を高め、ろう者として社会の中で生活する方法についても分かち合うことができるでしょう。ろう者だけでなく、太平洋諸島地域のすべての障害者の教育や生活の水準を高め改善していく活動をしたいと思います。

最後に

ダスキン愛の輪運動基金の皆さん、日本語の先生方、スキーの先生、水泳の先生、個人研修で研修をしてくださった皆さん、ワークショップの講師の皆さん、日本障害者リハビリテーション協会のスタッフの皆さん、13期の研修生の皆さんに、私を支えてくださったことを感謝申し上げたいと思います。また那須さんには、いつも通訳していただいて本当にお世話になりました。那須さんのことはずっと尊敬しています。皆さんには研修の最初から最後まで、忘れられないたくさんの思い出をいただきました。

母国フィジーとはまったく違う日本の環境に慣れることは難しかったものの、この研修プログラムによって私は前より自信をつけ、自身の経験を深めることができました。神様が私の日本の生活においてご自身のお働きの証しをされたのだと確信しています。これから私は、フィジーのすべての障害者の人たちを支援するために力を尽くします。

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