差別のない社会を目指して
私は生後4ヶ月で受障しました。近所の子供たちと一緒に遊びたかったのですが、両親が許してくれませんでした。その頃の生活は本当につまらなかったです。私は障害児の通う学校に入学し、そこで新しい友達ができました。学校で友達と一緒にいる時は楽しくても、家に帰ると相変わらずおもしろくなかったです。初めて家族と離れて過ごしたのは、ボーイスカウトの活動で、学校の先生と友だちと一緒にほかの街に行った時でした。それは私にとってとても良い経験になりました。大学で2年間学んだあと、マイルストーンの活動に関わることになりました。そこで、初めて多くの障害者に出会いました。マイルストーンでは、スポーツのコーディネーターとして、クリケットやマラソン大会の準備に携わりました。2011年、私はダスキンの研修生に選ばれ、来日を果たしました。コミュニケーションがうまく取れるか心配でしたが、日本障害者リハビリテーション協会(以下、リハ協)のスタッフが関西空港であたたかく迎えてくれました。そして、6つの異なる国から来た研修生とも会いました。6人の研修生は礼儀正しく、私たちはすぐに友達になりました。
研修生に選ばれた後、リハ協から日本語入門レベルの教材がいくつか送られてきました。それらを使って勉強してみましたが、とても難しく感じました。来日後、日本語のクラスが始まりましたが、とても不安でした。しかし、経験豊富な先生方は、私たちが理解しやすい方法を使って教えてくれました。例えば、授業中に行われたさまざまなゲームは、楽しいだけでなく、日本語の上達にもつながりました。そして、研修生やリハ協のスタッフと少しずつ日本語で会話ができるようになりました。日本語研修を行った3ヶ月は、ほかの研修生と散歩をしたり、週末に友達と一緒に出かけたり、楽しいことがたくさんありました。
私は2つの家庭でホームステイをしました。東京の桑原さんのお宅に滞在したのは、たった1日でしたが、私たちは良い友達になりました。桑原さんの家を出て、福岡に移動し、利光さんの家で約1週間のホームステイをしました。ホームステイを通して、日本の生活や伝統を知り、そして美味しい料理を味わうことができて、とても嬉しかったです。親切な利光さんの家族と一緒に、美しい自然のある街を散歩したり、利光さんの友達に会ったりしました。また、日本の料理を作っていただいたお礼に、パキスタン料理を作ってあげたりもしました。本当に良い思い出になりました。
初めてスキーを経験しました。最初は転んでしまったらどうしようと悩み、心配していました。しかし、スキーの先生と奥平さんがリラックスしてスキーを楽しむようにアドバイスをしてくれたので、スキーを楽しむことができました。スキー研修の2日間を、一生忘れることはないでしょう。
ホームステイが終わった後、個別研修が始まりました。私の最初の研修先は、JILでした。そこで、事務管理、自立生活運動、障害者運動、そして、若い障害者のネットワークについて学びました。中西さんと障害者運動や介助者サービス、そしてネットワーキングについて、話をしました。中西さんは親切で、ご自身の経験を私と共有してくれました。そして、パキスタンで障害者運動を担うリーダーになるために、私がなすべきことを示してくれました。
まだ日本語が上手ではなかったので、東京を離れて一人で沖縄に行くのは心配でした。沖縄では毎日が忙しかったです。県庁を訪問したり、セミナーに参加したり、施設を訪問したりして、自立生活がどうして大切なのかを学びました。
メインストリーム協会では、障害者や自立生活センター、介助制度、障害者運動について勉強しました。そして、障害者に対する差別とそれを克服していく方法や、障害者が自立して地域で暮らしていくことをどうサポートするかについても教えてもらいました。メインストリーム協会では、すべてのスタッフが志を持ち、楽しく仕事をしながら、それぞれの役割を果たしていました。どんなに障害が重いスタッフであっても、良い仕事をし、多くの楽しみを持って生活をしていました。私は、メインストリーム協会で、忘れられない素晴らしい経験とともに、大きな自信をもらいました。
DPIの業務内容や日本の障害者の福祉制度について学びました。DPIのすべてのスタッフといろいろな議論をしました。スタッフの皆さんは、DPI日本会議の活動など、さまざまな情報を教えてくれました。
さくらプロジェクトは、中古の電動車いすと手動車いすを集めて、整備し、パキスタンに送る活動をしています。パキスタンに届いた車いすは、主に重度障害者に配付されます。
パキスタンには、障害者に対する差別がたくさんあります。バリアフリーな社会ではありませんし、日本のような福祉制度もありません。例えば、介助者制度がないので、障害のある人は家族や友達の助けを借りなければなりません。このように、パキスタンの障害者の生活には困難がたくさんあります。
日本の障害者の生活はとても便利です。バリアフリーな街づくりが行われており、介助者派遣などの素晴らしい制度があります。日本の障害者は自分で考え、自分で決めて、自分の責任において生活をしています。このような素晴らしいシステムはどのようにして生まれたのでしょうか。日本では1950年代に脳性まひのグループが運動を始めました。そして、日本初の自立生活センターであるヒューマンケア協会が設立されたのは1986年でした。障害のある人たちが一丸となり、セミナーを開いたり、権利擁護活動を行ったり、デモンストレーションを実施しました。それらの活動の結果が、今の日本の姿です。多くの困難に直面し、長い月日がかかりましたが、日本の障害のある人たちは成し遂げたのです。
日本とパキスタンでは、生活様式も文化も異なります。しかし、障害者に対する差別や障害者が直面する困難は同じです。
障害者の生活の質を確保し、それを恒常的なものとできる社会を作ることが最も重要です。そのために、私は以下の活動を行います。
ダスキン愛の輪基金の皆さん、日本障害者リハビリテーション協会の皆さん、研修でお世話になった皆さん、本当にありがとうございました。