ろう社会の多様性
わたしの故郷はフィリピンのボホールです。私はろう者です。所属している団体は2つあり、ひとつは私がビザヤ諸島の理事を務めるフィリピンろうあ連盟の青年部、もうひとつは私がアドバイザーを務めるボホールろうソサエティです。私は今回第14期研修生として選ばれました。2011-2012年の第12期にも応募したことがあったのですが、その時は選ばれませんでした。日本に着いて、これから10か月の間に新しい場所を見学し、新しい人たちに会うのだと思うと興奮しました。ダスキン愛の輪運動基金、日本障害者リハビリテーション協会、そしてアジア太平洋の6カ国からやってきた他の研修生たちにまず会いました。皆と仲良くなり、私たちはダスキン・ファミリーとして一丸となりました。
3カ月の間、日本語と日本手話(JSL)を勉強しました。JSLは普段から手話でコミュニケーションをすることに慣れている私にとっては、日本語そのものよりずっと楽でした。しかし、しまいには日本語にもだんだんに慣れてきました。日本語と日本手話を教えてくださった先生方に心から感謝しています。
新年には和歌山県に行ってホームステイ先の藤岡さんご一家に会うというすばらしい経験をしました。ご夫婦はお二人ともろう者で、二人聴者の息子さんがいました。お母さんは新年にお父さんとおもしろい話をしながらおせち料理を作ってくれました。二人の息子さんは私といつも遊ぶようになって、私の肩に乗ったり、一緒に電車のおもちゃで遊んだりして、実に楽しかったです!また、日本の伝統的な衣装である着物も経験し、新年には神社に行って藤岡さんご一家と一緒に新年の祈りを捧げました。ホームステイはとても楽しかったです。藤岡さんご一家も私との時間を楽しんでくださっていたとしたら、とても嬉しいです。
日本で雪を初めて見ました。フィリピンでは雪を見たことはありませんでした。新潟で、インストラクターの先生からどうやって滑るかを習いました。たくさん転びましたがとても楽しかったです! 私にとって忘れられない初めての日本の冬となりました。
私は兵庫県で2カ月、個別研修を受けました。兵庫には、兵庫聴覚障害者協会が運営しているものも含めて、神戸、尼崎、淡路、姫路、豊岡に5つのろう社会福祉センターがあることを知りました。上述のセンターは、手話でのコミュニケーションを保障し、ろう者の生活をサポートしている施設です。これらのセンターでは、健康管理支援や各種研修、創作活動や相談支援を受けることもできます。ろう者のコミュニティは一丸となっていることが大事です。これらのセンターでは、ろう者の生活についていろいろな人が語ってくれて大変感銘を受けました。フィリピンにはろう者の社会福祉センターはないので、フィリピンのろう者は大変な生活を強いられています。フィリピンにも、日本と同じような福祉センターが必要だと思います。帰国後は、私の所属するボホールろうソサエティを手伝って、仲間のボホールのろう者のためにワークショップなどのイベントを開くなど、手助けをしたいと考えています。
兵庫の聴覚障害者情報センターでは、ろう者のための情報サービスについて学ぶ機会がありました。ここではろう者に対して非常時や災害時の情報サービスや相談、研修、手話通訳、字幕作成などのサービスを提供しています。フィリピンのろうコミュニティでも、このような福祉や情報サービスを提供することが大事だと思います。フィリピンでは手話通訳者が常に不足しているため、災害時にはろう者は情報にアクセスできません。フィリピンでもろう者及び障害者が災害時に避難準備できるようにするためにも、このような情報サービスやアクセシビリティが必要です。今が、フィリピンのろう者、障害者に知識とアクセシビリティを提供する好機といえると思います。
全日本ろうあ連盟の青年部(JFDYS)では、青年部の経営方法について新しい学びがありました。JFDYSでは組織図がちゃんとあって、日本の43の都道府県に青年部が存在している様子が分かります。フィリピンでも、いつか全日本ろうあ連盟青年部のように、全国の州の青年部の存在が一目でわかる組織図が作れたら良いと思います。私は兵庫県、滋賀県、近畿、広島県、北海道などの青年部を訪ね、ミーティング、ワークショップなどいろいろな活動に参加して新しいことを多く学びました。青年部のゴールは、フレンドシップ(一丸になること)、そして研修とアクセシビリティです。青年部では、世界のろうコミュニティが一丸となることの重要性を認識しているのだと思います。そして、青年部でも将来必要に応じて若いろう者をサポートするためにリーダーシップが必要です。研修が終わってフィリピンに帰ったら、フィリピンろうあ連盟青年部の手助けをしたいと思っています。
手話についてたくさんの授業を受けるうちに、コミュニケーションの段階についての授業がありました。年齢によって、使用する手話が異なるのです。子供、ティーンエイジャー、年配者では使う手話が違います。また、出身地によっても使う言葉が変わります。筑波技術大学(NTUT)では教員でありろう者でもある大杉先生が、手話を研究した録画を見せてくださいました。また、どのように手話研究がなされているかについても説明してくださいました。私自身もそれぞれ東京と和歌山に住んでいる二人のろう者に会ったとき、東京と和歌山では使う手話が違って、たとえば「水」といった手話表現が違うことに気がつきました。また、日本で唯一バイリンガルかつバイカルチャーの教育を実施している明晴学園でも研修しました。明晴学園では先生の一人が、手話を使って意思疎通する3歳以下のろうの幼児について話してくださいました。「おかあさん」という表現をしようとして、ほおに触れて親指を立てる「おとうさん」の表現をしています。しかし育つにつれて、ちゃんと「おかあさん」の手話ができるようになります。地方によって手話表現が違うことを学んだのは大変興味深かったです。フィリピンでもこのような手話のカリキュラムをろう教育に取り込めたらと思います。
ろう者のバイリンガル・バイカルチャー教育について学んだのは大変興味深い経験でした。二週間、明晴学園で研修しました。明晴学園は日本で唯一ろう者のバイリンガル・バイカルチャーの教育を行なっている私立校です。私がろう者のためのバイカルチャーの教育に携わるとしたら、まずはろう文化、そして次に日本文化のようなその国の文化を教え、その国の文化の一環として聴者文化のエッセンスも取り入れたいと思います。一方、バイリンガルの教育ではまずその国の手話を、次にろう児のための読み書きを教えます。こうすることでろう者のコミュニティ・ろう児は二つの文化と二つの言葉を知ることになり、知識を得るとともに手話を使ってより良いコミュニケーションができるようになります。将来はフィリピンのろう学校でもこのようなカリキュラムを組みたいです。バイリンガルの視点をもったろう教育の研究をいつかフィリピンでもやってみたいと思います。
ろう者のドキュメンタリー映像は実在の人や場所、出来事などに基づいています。先人の話す自分史から、私たちはろう教育、ろう者にとっての言語、文化、そしてろう者のコミュニティがどのような変遷を辿ったのかを知ることができます。また、聴覚障害者情報センターで研修していたとき、日本ではろう者向けの新聞、雑誌、ドキュメンタリー映画、情報サービスがあることを知りました。フィリピンでも、ろう者のドキュメンタリー映像を作ることができればと思います。
日本ASL協会(JASS)では日本の聴衆向けのプレゼンテーションスキルについて久美子先生の指導のもと、二週間をかけて研修しました。自分のプレゼンテーションの様子はビデオを見ながら練習しました。久美子先生そしてJASSのスタッフの皆さんに、研修の機会を与えてくださったことを感謝します。
日本の春を初めて経験することになりましたが、一番素晴らしかったのは何といってもフィリピンで見たことのなかった桜でした。京都や大阪まで桜を見に行き、桜が大好きになりました。日本で一番印象に残っているた情景は、桜が満開になったときの春です。
10か月の間、日本のろう者社会について学ぶことができました。また、一緒に勉強した仲間たちからも、ろう者社会や障害者のコミュニティについての経験を聞くことができ、多くの学びがあり、感謝しています。フィリピンでもろう者のコミュニティをもっと組織化して、ろう者がより多くのチャンスや知識を得られるようにしていく必要があるので、帰国後はろう者のコミュニティに貢献していきたいと思っています。
皆さんに心からの感謝を捧げたいと思います。ダスキン愛の輪運動基金は研修の機会を与え、日本でのすべての活動をサポートしてくださいました。日本障害者リハビリテーション協会の皆さんもすべてにおいてサポートしてくださいました。兵庫県聴覚障害者協会、そして神戸、尼崎、淡路、姫路、豊岡の皆さん、盲ろう者のコミュニティの方々、そのほか研修を支えてくれた皆さん。研修を支えてくださった筑波技術大学、日本ASL協会、明晴学園の皆さん、研修の最中私の指南役を務めてくださった先生方、そしていつも一緒に楽しい時を過ごしお互い助け合った同期の研修生仲間、そして私と一緒にいてくださった日本の友人の皆さんに、心からの感謝を捧げたいと思います。本当にありがとうございました。皆さんに神様の御加護がありますように、そして皆さんが一層力を持って前進してゆけますように。