Duskin Leadership Training in Japan

最終レポート

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アンジャナ・ケーシーのファイナルレポート

私たちも…

1.自己紹介

私はアンジャナ・ケーシーです。ネパールのポカラから来ました。私の障害は骨形性不全症です。私のお姉さんも同じ障害がありましたが、14歳の時に亡くなりました。私は普通の学校で勉強しました。毎日お母さんが私をおんぶして、家と学校を往復してくれました。でも、学校にはバリアがたくさんあったので、朝10時から夜5時までずっと教室から出られませんでした。トイレも使えなかったので、何も飲まないようにして、食べ物も少しだけ食べました。大学の勉強は家で自習して、試験だけを受けました。大学を卒業してから、ポカラで「自立生活社会」という団体を立ち上げて、みんなと一緒に活動を始めました。そして、2012年に日本で研修するチャンスをもらいました。子どもの時から、日本は私にとって夢の国でした。私は日本で勉強しながら、いろいろな新しい経験をしました。そしてとても大事なことを学びました。

2.日本語

日本へ来る前、私は日本語が全然分かりませんでした。ですから、初めの3ヶ月間は日本語が話せるようになるために、とてもがんばりました。先生たちはみんな、優しくて長い経験がありますから、勉強の時も楽しかったです。私は日本語を話す時、いつも間違いました。間違ってもいっぱい話したので、だんだん日本語が話せるようになりました。

3.ホームステイ

お正月に、私は西宮市でホームステイをしました。ホストファミリーのお母さんとお父さんはとても優しい人でしたから、ホームステイはとても良かったです。家族と一緒に、いろいろな神社へ行ったり、ネパールのゲームを楽しんだりしました。私はお鍋が大好きだから、お母さんはキムチ鍋を作ってくれました。帰る日の朝、お父さんはネパールのとても難しい歌を歌ったので、私は本当にびっくりしました。ホームステイでいっぱい良い思い出ができました。ネパールへ帰っても、日本には私の家族がいます。

4.個別研修

(1)自立生活センター・てくてく

私の個別研修は、てくてくから始まりました。そこで私は、ゆっくりゆっくり、でもたくさん勉強しました。いろいろな施設や学校、病院での生活も見ました。吐合さんや岩崎さんの自分史も聞きました。てくてくで一番良いのは、年上の人たちに相談ができることです。日本にいる間、何かあったら、私は吐合さんと岩崎さんに相談しました。介助を使う研修も始まりました。その時の私は、介助者にどんな仕事をしてもらうのか、どうやって仕事を頼んだらいいのか、全く分かりませんでした。私は全部自分でできると思っていたので、介助者と一緒にコーヒーを作ってお話しをするだけでした。

(2)沖縄県自立生活センターイルカ

沖縄の海はきれいで、天気はネパールと似ています。沖縄でお寿司を食べてから、私はお寿司が大好きになりました。

イルカのとても良いところは、若い人たちと年上の人が一緒に運動をしていることです。そうすると、若い人は年上の人から経験を聞きながら、自分たちの新しい活動を作ることができます。そして、長位鈴子さんから大切なアドバイスをもらいました。「あなたの国では障害者のための制度がないから、自分たちで声を上げなければいけません。障害者を支援するために、障害者が勉強できるために、自分で声を上げてください。これは一番大事なことです。」と鈴子さんは教えてくれました。

私は鹿児島と沖縄の研修で、たくさんの施設や病院へ行きました。そこにはとても便利なものがありました。でも、「便利なかご」のようだと思いました。例えば、建物の中には食べ物や欲しいものがあるけど、それを好きな時に使う自由がないし、外に出る自由もありません。1年に2、3回、外に出ることができると聞きましたが、その他は毎日同じ生活です。今のネパールの生活と日本の施設の生活は少し似ていると思いました。

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(3)自立生活夢宙センター

夢宙センターは、私にとって「家」のような場所で、一番好きなところです。お姉さんみたいな惠美さんとお父さんみたいな平下さんがいるから、やりたいことやおもしろいことをいっぱいしました。例えば、コントやBBQをしました。夢宙センターでは、いつも楽しく研修しました。

・自分史と私の障害

夢宙センターでも、自分史を聞きました。ネパールにいる時、「自分はとても悪い人だ」と思っていました。自分の障害も嫌いでしたし、障害のない人と友達になりたかったです。したいことができなかった時、「私が悪い」と考えて、自分のことを怒っていました。でも、夢宙でみんなの自分史を聞いた時、みんなも最初は同じように思っていたと分かりました。障害者の気持ちはどこでも同じです。私たちは住んでいる国だけが違います。一番印象に残っているのは、ララさんの自分史です。彼女の自分史を聞いて、私は強くなりました。そして、自分のことが好きになるためには、自分の気持ちを変えることが大事だと知りました。

ネパールにいる時、自分の障害のことを知るのが怖かったです。しかし、自分の障害について分かった方がいいと考えるようになって、骨形をよく知っているお医者さんと会いました。先生は私に「あなたの体はだんだん弱くなります」と言いました。日本で私より障害が重い人たちが制度を使って楽しく生活している様子を私はたくさん見てきたし、たくさん話を聞きました。ですから、私も体が弱くなっていろいろなことができなくなった時、同じような生活がしたいと考えました。制度を作るためには運動をすることが大事ですから、国に帰ったら頑張って運動をすると心に誓いました。

・介助者を使うこと、楽しく活動をすること

夢宙で研修をしたので、介助者を使うことと、楽しくておもしろい活動をすることの大事さがやっと分かりました。障害のために自分でできないことを介助者に手伝ってもらったら、私にしかできない活動がもっとたくさんできます。ですから、介助者を使うことは大切です。そして、私たちのように社会を変える運動をしている人には、たくさんの仲間が必要です。作りたいシステムがあっても、それが何年後にできるか分からないので、時々、気持ちが弱くなるかもしれません。ですから、自分のために、仲間のために、うれしくておもしろい活動が大切です。活動がおもしろかったら、心が元気になって、運動をしていても辛くなりません。心が元気になることは大事です。夢宙にいる間、私の心はいつも元気でしたから、そのことがよく分かります。夢宙センターと同じようなところがたくさんあれば、誰も寂しくならないと思います。みんなはみんなのためにいるから・・。

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5.気付いたこと・変わったこと

日本は便利ですから、日本にいる間、初めてのことや絶対にできないと思っていたことも経験しました。一人でどこにでも行ったし、色々なスポーツもしたりしました。そして、恋愛や結婚のことも夢見ました。ですから、私の国も便利になれば、障害のある人が色々な夢を思い描き、それを叶えることができると思いました。しかし、国が変わらないと、私たちは夢を見る自信さえ持てません。

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日本へ来る前、私は勉強をとても頑張っていました。政府の仕事をしたり、外国に行くチャンスが欲しかったからです。しかし、一人でどんなに頑張っても、国を変えて、制度を作らなければ、本当にやりたいことができないと分かりました。そして、私に夢と強いパワーをくれた自立生活運動がもっともっと好きになりました。

6.私たちも…

「私たちも(we too…)」は、私が国へ帰ってからやりたい活動です。この言葉には、「私たちもいろいろなことをやりたいです。勉強をしたり、外に出かけたり、バスに乗ったり、買い物にも行きたいです。なぜなら、私たちも人間です。私たちにも人権があります。」という意味が込められています。私は日本で障害や制度についてたくさん勉強しました。日本で学んだことを使って、国で制度を作るための運動を頑張ります。運動をするためには、仲間が大事です。仲間の問題や気持ちをよく理解して、どんな制度を作ったらいいか相談します。みんなが嬉しくておもしろくなる活動も一緒に考えます。

私はバリアフリーのネパールを作りたいです。介助制度を作って、障害のある人がみんな自立生活をして、恋愛や結婚をして、家族を作って、幸せに生活している姿を見たいです。私たちもこの社会で、自由にうれしく楽しく生活するために、諦めないで頑張ります。We don’t need sympathy、we need empathy.

7.最後に

この10カ月間、いろいろなことを教えてくださった皆さんと団体に心からお礼を言いたいです。いつも手伝ってくれたり、相談にのってくれた日本障害者リハビリテーション協会のスタッフと、私のロールモデル奥平真砂子さんにも感謝しています。そして、私に素晴らしいチャンスをくださったダスキン愛の輪基金の皆さんに、心から感謝しています。

ありがとうございました。

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