オタク人生のターニングポイント
私はリービンユーと申します。台湾の台中から来ました。私を含めて、家族は両親と姉一人と義理の兄、全部で5人います。私には二分脊椎症という先天的な病気があります。体重が増え、身長が伸び続けた結果、障害が徐々にひどくなってきました。大学二年生になる前の夏休みにもう一度手術を受けましたが失敗し、下半身の機能を完全に喪失しました。
生まれてから24年間、つまり約5年前まで障害者に関することは全く知りませんでした。学生時代もずっと普通学校に通っていました。大学の時に手術が失敗し、他の衝撃も重なったため、人との関わりを避けるようになりました。特に22歳から24歳まで、家に引きこもってアニメとゲームに明け暮れ、外の社会と全く接触しませんでした。完全にオタクの生活でした。家から出るきっかけは、母が脊損協会に連絡を取ったことでした。最初は健康のために、協会の卓球チームに入りました。同じ年、脊損スポーツ大会に出場し、その場でダスキン8期生のまるこさんと出会って、この研修のことを初めて聞きました。それは人生最初の変化でした。暗幕で覆われた鳥籠の中で暮らしていたような私でしたが、外側の黒い幕を切り捨てて、鳥籠の外の世界を見ようする気持ちが湧いてきたのでした。
この研修を知ったのは4年ぐらい前でしたが、何事もある程度の実力をつけてからでないと動けない性格の私は、自分には能力の足りないと思い込み、籠を出る勇気がありませんでした。まずは日本語を習得することにしたので、研修への応募の機会を何度か逸しました。そして、2012年9月3日、私はやっと日本に来ました。これから先、何が待ちうけているのか、その時の私はまだ知らなかったです。ただ、今までの人生からの変革を求め、日本に来ました。私はようやく籠から外に出て、歩き出しました。
車椅子に乗る人も、スキーができる?!
こんなことは今まで全く考えたことがありませんでした。しかし、バイスキーに乗れば、身体不自由者もスキーの楽しさを体験できます。バイスキーは普通のスキーよりも速いですが、方向をコントロールするのは難しいです。例えば、いきなりターンをしようとしたら、必ず転びます。この違いは、人がそれぞれ異なる能力を持っていることにも似ています。スピード感を求める私にとって、バイスキーはぴったりでした。スキー体験を通して、一つの真理をよく理解出来ました。それは合理的な配慮があれば、障害のある人もない人と同じようにスキーができるということです。
お正月に、私は高知県の樋口さんと近藤さんのお宅を訪問し、一週間一緒に過ごしました。歴史好きの私のために、樋口さんは情報を調べ、坂本龍馬記念館を案内してくれました。不思議な景色、「海の道」も見ました。そして、私が見ていたテレビドラマの舞台となった四万十川にも、わざわざ旅行に連れて行ってくれました。本当の家族と過ごすような時間、あまりにも美しい景色と快適な生活は、日本に来てから一番、私の心を穏やかにしてくれました。
日本に来た頃の私は、引きこもり状態から脱して4年が経っていましたが、社会と自分の間に壁を作っていて、人との交流にも問題を感じていました。しかし、来日してしばらくは、日本語ができない研修生のために通訳をしていたので、自然に周りの人たちと交流が生まれ、環境になじむことができました。そして、いろいろな人とさまざまなことについて話し合うことで、私は社会の中で差別され、人が怖いと思っていた過去から脱し、社会との間にある壁を壊し始めました。最初は力が弱く、小さなヒビしか入りませんでしたが、個別研修で、経験や知識が豊富な人たちと会う機会が増え、この社会はそんなに怖くないと思えるようになりました。そして、私は壁を完全に打ち壊すことができました。
「障害があるのだから、そんなことをしちゃいけない」と私はよく言われていました。どうせやらせてもらえないと思うと、やる気も少しずつなくなり、最後には自信もなくしていました。個別研修では、私より重い障害がある人達とたくさん会い、皆さんの自分史を聞き、一緒に生活しました。彼らの人生や生活の全てが、私が出来ることはこの世界にたくさんあることを教えてくれました。そして、この社会に生きていく自信を取り戻しました。
最初の個別研修先は京都のアークスペクトラムでした。研修期間は比較的短かったですが、自立生活に必要な基礎知識全般を教えていただきました。そして、本当の意味での一人暮らしを体験しました。「自己決定、自己選択、自己責任」という自立生活の要素を徹底的に実行しました。ピアカウンセリングもよくやりました。様々な問題について話しをしていたら、最後にはなんとなく自分で解決策を見つけ出していました。まさにピアカウンの真の目的である、「障害者が自らをエンパワーメントする」という体験でした。
私は資格を持っていて、台湾でもよくバリアフリーチェックしました。しかし、台湾の建築業者はユニバーサルデザインに関心がないというより、その理念を正しく理解していないと感じます。そこで、ミライロでは、ユニバーサルデザインの理念を多くの人に伝える方法――接客研修を勉強しました。そのほかに、文章の読み書きをたくさんしました。例えば、国土交通省の建築設計標準をしっかり読みました。今の日本の街に設置されたマッピングシステムのソースも読み、マップの上方向が必ずしも北に設定されていない理由がはっきり分かりました。
私はスポーツが好きです。一緒にスポーツをする友達の数を増やすためにも、皆さんの体を健康にするためにも、スポーツに関する研修を受けました。今まで私はアスリートの視点でスポーツを見ていましたが、この研修を通して、指導者の視点による訓練方法とメンタルケアも学ぶことができました。これからはアスリートとしての自分を強化するためだけでなく、若手の育成のためにも、勉強した方法を生かしたいと思います。
日本語と個別研修以外に、私たちは様々な研修を受けました。知識やスキルの習得はもちろんですが、私にとって最も重要だったのは、他の障害がある人と接し、彼らの視点からはこの社会がどう見えるのか、どんな需要があるのか、を学んだことです。自分のことだけを考えていたら、世界が狭くなるので、多くの意見を聞くのは大切です。
メインでの研修は他の研修と違いました。もちろん、講義もきちんと受けましたが、理論より、実体験を通して生活の取り組み方と楽しさを学んだと思います。例えば、メインのスタッフ達が普段どんな生活をしているのかをたくさん見せてもらいました。皆さんは重度障害者で、介助者を使って生活をしているので、私はその場で介助者の使い方も覚えました。そして、重い障害があっても自立生活運動を通じ、地域で元気に生きる姿を見て、その取り組みを台中の障害者に伝えたくなってきました。ここで、私はパラリンピックに出場する以外の新たな目標を探し出しました。
台湾に戻ってから、先ずは一緒に自立生活運動ができる仲間を探します。パラリンピックのアーチェリー代表を目指しながら、日本で勉強した自立生活運動について周りの人に話し、興味がある人にもっと詳しく説明します。また、台中で自立生活センターを立ち上げ、台北センターにいるダスキンの先輩達とネットワークを構築し、共に運動し、台湾の制度をより良いものに変えたいです。それから、台湾の他の町にも自立生活運動を広げたいです。
日本での十ヶ月の研修は、私にとって大きなターニングポイントになりました。私がどのように変化したのか、その全てを自分では分かりませんが、考え方が変わったのは確実です。例えば、個別研修を受ける前は、スポーツのことばかり考えていましたが、今は障害者の自立生活運動にも興味を持っています。
私を研修生として選考してくださった実行委員会の皆さまに感謝を申し上げます。もし今回の機会がなかったら、今でも私はただのスポーツオタクだったと思います。知識や経験をたくさん教えてくださった日本語や研修先の先生方にも感謝しています。そして、日本で出会った全ての人々にお礼を言いたいです。皆さんがいなかったら、私は途中で諦めていたかもしれません。皆さんは私の心の柱です。10ヶ月間、互いに助け合い、さまざまな困難を乗り越えてきた研修生の仲間にも、ありがとうと言いたいです。最後に、この研修の主催者である、ダスキン愛の輪基金の皆さんに感謝の気持ちを伝えます。この研修があるから、私達研修生は大きく変わることができ、卒業生たちの活躍はアジア太平洋の障害者の生活を少しずつ改善しています。本当にありがとうございました。