台湾出身のイーシャンです。私は台湾の新北市に暮らしています。生まれた時は聴者でしたが、8歳の時に大病を患い、失聴しました。補聴器を試してみましたが、その効果がみられなかったので、装用しませんでした。そのため、8歳から18歳までの10年間、私はろう者として、全く聞こえない世界で生活していました。私はろう学校ではなく、地域の学校で教育を受けました。授業中、先生の声が聞きとれなかったので、教科書を読んで独学を行いました。クラスメートとのコミュニケーションも取れず、辛い思いをしました。
私は聞こえを補うための方法を自分で調べはじめ、人工内耳という技術を知りました。そして、18歳で高校を卒業し、人工内耳の施術を受けることを決めました。人工内耳を装用したことで、少し聞こえるようになり、そこから難聴者としての生活が始まりました。
大学卒業後、ろう協会のメンバーになり、手話を学び始めました。そして、28歳でダスキン18期生に選ばれ、日本の手話を学びました。
私の日本での研修の目的は3つありました。
この3つの目標を達成するために、様々なところで研修しました。
主な個別研修先は、鹿児島と神戸でした。
「デフNetかごしま」には、ろう者のスタッフや利用者がたくさんいて、コミュニケーションの手段は手話でした。色々なことを学びましたが、作業所「ぶどうの木」と日本手話の指導クラスが印象に残りました。
「ぶどうの木」では、利用者であるろう者が、それぞれの特技を活かして様々な手工芸品を作っていました。私が気にいったのは、紙バンドを使ったバスケット作りです。バスケット作りの担当者は黙々と作品を制作していたので、私はその様子を見て、真似をし、分からないところは質問するという方法で、作り方や技術を覚えていきました。そして、3日間学んだころには、バスケットの基本構造が理解できました。ある日、ぶどうの木で働くスタッフが雑誌を持ってきて、そこに掲載されていたバスケットと同じものを作ってほしいと頼まれました。設計図もなく、実物も見ることができない状態から、1枚の写真だけを頼りに、自分でデザインを考えました。試行錯誤の末、同じような作品を完成させることができました。私にとっては難しい挑戦でしたが、スタッフは大変喜んでくれましたし、よい経験になりました。
デフNetかごしまには2つの手話クラスがありました。1つは日本手話の基本会話を学ぶクラスです。日本手話を使ってろう者と交流できることを目標に、受講生は手話を学んでいます。もう一つは、手話通訳者を目指す人のためのクラスです。こちらのクラスでは、手話通訳者に必要な高度な技術を身に付けるための訓練も行われています。私はそれぞれの受講生が目的を達成するために、どのように指導するのかを考えながら見学しました。その結果、指導法の違いを知ることもできましたし、私自身の日本手話技術の向上にも繋がったと思います。
神戸では「自立生活センターリングリング」で研修しました。リングリングには、難聴者のスタッフがいました。彼女は、他のスタッフと手話や筆談を使ってコミュニケーションを図っていました。リングリングでも手話教室が実施されていますが、受講生はセンターのスタッフです。これは、センター内のコミュニケーション促進を目的としたクラスだからです。センターには、障害のあるスタッフもいれば、障害のないスタッフもいます。手にまひがあって、手話が表わせない場合、他のスタッフが代わりに手話を表出していました。
センターには難聴以外の障害のある人がたくさんいました。手話が堪能な人ばかりではないし、私も日本語を話したり聞いたりするのは上手くできません。そのような条件下で、どうやってコミュニケーションを成立させるかというチャレンジは、楽しくもあり、実践的でした。また、その会話を通して、難聴以外の障害のある人がどのような課題を抱え、活動をしているかを知ることもできました。
リングリングでの最高の経験は、ピアカウンセリング(以下、ピアカン)です。約1ヶ月半という長期研修の中で、3月に3日間、5月に4日間、合計7日間の集中的なピアカン講座に参加することができました。ピアカンは、自分の感情を伝え、仲間と話し合いを重ねる中で、自分を顧みることができるようになるプログラムです。仲間との交流を繰り返し、互いに高め合い、成長するという素晴らしい経験をしました。
研修プログラムの中に、ホームステイとスキー研修が組み込まれているのは、世界のどこを探しても、このダスキン研修以外にはないでしょう。これら2つのプログラムにより、日本での学びがより深まったように感じます。
年末年始のホームステイでは、香川と宇都宮に行きました。香川ではうどん作りを体験させていただき、宇都宮では着物を着せていただきました。実際に、日本人のご家庭に滞在しながら日本の文化に触れることができたのは貴重な体験でした。
スキー研修は決して忘れられないものです。スキー研修最終日の夜に、研修生とダスキン愛の輪基金、そして、日本障害者リハビリテーション協会のスタッフと一緒にお酒を飲みながら交流会をしました。私は英語が苦手なので、他の研修生とのコミュニケーションが難しく、あまり話をすることがありませんでした。しかし、この夜、リラックスした雰囲気の中で、スキーという共通体験を持ちよって、皆さんと色々な話をしました。この日を境に、研修生との間に感じていた壁がなくなり、今では、18期生のみんなは一番の仲間だと感じています。そんなふうに思えるようになったことで、私のコミュニケーションに対する考え方、ひいては私の人生観が大きく変わりました。
私は聴者として生まれ、8歳でろう者となり、18歳で難聴者になりました。聴者である私は、8歳の時に死んでしまいました。聴者だった私に戻ることはもうできないのです。今の私にはろう者と難聴者の2つの世界があります。普段の私はろう者です。全く聞こえない世界に住んでいます。そして、聴者とコミュニケーションをとる時は、相手の声を聞きたいので、難聴者になります。私はろう者と一緒にいる時、自分の思いを何でも話せることに気付きました。そこには差別がなく、等身大の私でいられるからです。聴者と一緒にいる時は、知らず知らずのうちに相手に合わせしまう私がいます。しかし、そんな苦しい気持ちを隠してしまうため、聴者からは「あなたは強い。」「あなたは大丈夫」とよく言われます。本当は、努力して相手に合わせていることに気付いてはもらえません。私は聴者と一緒にいる時に、心から楽しいと感じていなかったことに気付きました。では、聴者、難聴者、そしてろう者は分かりあえないのでしょうか。私は、3つの世界をつなぐことができると信じています。3つの世界になくてはならないものは4つあると思います。手話、言葉、目、心です。特に大切にしたいのは、やはり「心」です。相手と通じ合いたい、相手と学び合いたいという思いは、私たちの心から出てくるものです。
帰国後の目標は4つあります。
まずは、情報保障に関する活動です。手話通訳者の養成、難聴者に役立つ福祉機器の紹介などに関わりたいです。また、ろう者と聴者が共に楽しめるイベントを企画し、聞こえない、あるいは聞こえにくい人に対する理解促進を進めたいです。
次に、手話研修センターを設立することです。台湾では手話の研究が進んでいません。台湾手話の辞書も作りたいです。
3つ目は、中途失調者への支援です。私自身の経験から、台湾では中途失聴者に対する支援が大変少ないと感じています。一方、先天的に聴覚に障害のある人には様々な支援があります。失聴の時期に関わりなく、受けられるサービスを平等にしたいです。
最後に、聴覚に障害のある人のための自立生活センターを設立したいです。このセンターで情報提供などを積極的に行い、聴覚障害のある人のための基幹センターにしたいです。
研修期間中、さまざまなところでお世話になりました。ダスキン愛の輪基金の皆さん、研修先の皆さん、日本障害者リハビリテーション協会の皆さん、多大なご支援をいただき、ありがとうございました。