Duskin Leadership Training in Japan

最終レポート

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ノー・サン・ター・ウイのファイナルレポート

手話で分かち合えた時間が一生の宝物

はじめまして。ダスキン22期研修生のノー・サン・タ―・ウイです。名前が長いので、ウイと呼ばれています。ミャンマー出身です。ヤンゴンにあるろう学校で、手話の指導を担当しています。私は両親と妹の4人家族で、私以外の家族は聴者で、ろう者は私だけです。

コミュニケーションに起因したミャンマーのろう者が抱える問題について

私の両親と妹は手話が少しできます。しかし、家庭内のコミュニケーションで手話が使われることはほとんどありません。同様に聞こえる両親の元に生まれたろう者が、家族とのコミュニケーションで手話を用いるというのは聞いたことがありません。つまり、家庭内でのコミュニケーションや情報がほとんどないということです。

また、ろう者のほとんどが、書記ミャンマー語がしっかりと身についていないため、例え、ミャンマー語で筆談されたとしても分からないことが多いです。このことは、ミャンマーのろう者が社会に出た際に大きな障壁となります。就労の面でも、大きな問題となっています。

日本では、ろう児のいる家庭で、手話によるコミュニケーションが円滑に行われていました。ろう学校の子どもたちの書記日本語の読み書きの習得もとてもスムーズでした。このことは、その後の就労等の社会生活でも、筆談で聴者とのコミュニケーションが可能であることを意味しています。また、聴者と筆談以外のコミュニケーションが必要な場合、日本では、必要に応じて手話通訳も利用できます。是非、こういった日本の良い部分をミャンマーのろうコミュニティに紹介したいと思います。

来日の目的について

ミャンマー手話は、ミャンマー語に比べて語彙数が少ないと感じていました。手話でも音声言語同等の表現ができるように手話の語彙を拡充し、本にまとめたいと考えました。そして、日本での手話教授法を学び、より良い指導法で、ろう児にミャンマー手話が教えられるようになりたいと思いました。また、成人ろう者の書記ミャンマー語の習得についても、日本におけるその方法を学び、ミャンマーで活かしたいと思いました。

この3点は非常に重要であり、これらを日本で学びたいと考え、来日しました。

日本で学んだこと

デフネットワークかごしまでは、3つの事業について知ることができました。

1つめは、デフキッズという放課後デイサービス事業です。この事業は、学校が終わってから、仕事をしている両親が帰宅するまでの間、一人になってしまうろう児のための居場所づくりの活動です。ここでは、ろう児が分かるような形でしっかりと情報が提供され、様々な活動を通して社会のルールやマナーを身に付ける場にもなっていました。

ミャンマーでも、同様の環境に置かれたろう児がいますが、デフキッズのような情報提供の方法が取られ、社会のルール等を教えてもらえる場はありません。このような場の必要性も、是非、ミャンマーのろう学校やコミュニティに報告したいです。

2つめは、ぶどうの木という高齢のろう者や知的の重複障害をもつ人々の就労事業です。家族の世話になるだけではなく、ろう者自身が、販売する手芸品を作ったり、箱の組み立ての作業をしたり、就労によって賃金を得ることができる場です。また、作業をしながらろう者同士で交流が図られていて、非常に良いと感じました。ミャンマーでは、高齢のろう者は家に引きこもりがちです。このような就労の場はありません。このような場所も、是非、ミャンマーに作っていきたいです。

3つめは、ワッフルの製造販売をしている、さつまワッフルです。ろう者、聴者が共に働く場となっていました。作業工程は、見て分かるように写真で示されていました。ろうのスタッフも接客に対応できるような仕組みづくりがされていて、来客はライトの点滅で知ることができました。お客さんとのやり取りは、メニュー表の指さしで行っていました。

このような工夫があれば、ろう者でも就労し、自立することは可能だと感じました。是非、このような就労の場も作っていきたいと思います。

写真1

日本ASL協会では、手話によるプレゼンテーションスキルについて学びました。分かりやすい伝え方や話し方の技術は、その後、研修で訪問した先々で自己紹介等のお話をさせていただく機会を得た際に非常に役に立ちました。

このような手話でのプレゼンを学べる場は、ミャンマーにはありません。しかし、ろう者が自信を持って自分の考えや意見を述べるためには、こういった力も養っていく必要があると感じました。私も機会を得た際には、しっかりと自分の考えや意見が伝えられるように技術を磨いていきたいです。

写真2

聴覚障害者協会は、埼玉と福岡の2か所で研修させてもらいました。

各協会では、手話講習会や手話検定が実施されています。社会人や学生、主婦などが手話を学び、その後、手話通訳として登録し、病院などでの通訳として活動しているそうです。

ミャンマーには、こういった手話講習会も、手話通訳登録の制度もありません。ろう者は、病院での医師からの説明が分からずに、苦労することがあります。

また、ろう協の活動には、多くの高齢のろう者も参加していました。ミャンマーの高齢のろう者の活動の場という意味でも、日本各地の聴覚障害者協会の活動は参考になると感じました。

明晴学園では、ろう児の母語となる日本手話を第一言語として、書記日本語は、第二言語として学ぶというバイリンガル教育が実施されていました。

ミャンマーのろう学校の問題の1つに、学校内で手話が用いられる場面が非常に少なく、ろう児の手話の習熟度の低さがあります。

明晴学園では、母語である日本手話をしっかりと身につけることで、その後の書記日本語やその他の教科の学習が円滑に行えていることが分かりました。このような教育方針は、非常に良いと感じました。

また、明晴学園では、保護者に日本手話を学ぶ場を提供していて、非常に素晴らしいと感じました。保護者が日本手話を学び、習得することで、家庭内で手話によるコミュニケーションや情報提供が可能になります。ミャンマーには、このような保護者が手話を学べる場はないので、取り組んでいきたいと思いました。

写真3

筑波技術大学は、ろう者の大学です。ろうの学生たちが全国から集まり、様々な分野で学んでいます。中でも興味深かったのが、手話の習得に関する研究です。聴者の手話習得についての研究では、その結果を手話通訳者の養成に活かせるような分析が進められていました。

ミャンマーには、ろう者に特化した大学はなく、ろうの学生が集まる場もありません。ろう者同士が手話について議論をする場もないため、手話についての調査・研究の実施が困難な状況にあります。

日本で様々な知識を得たことで、ミャンマーのろう教育の課題が明確になりました。

日本では、テレビのニュース等で情報保障が当然のようにありますが、ミャンマーにはありません。ミャンマーでは、病院に手話通訳者が同行することもなければ、ろう学校内では先生と話が通じないことも日常茶飯事です。法的な場での手話通訳も認められていないなど、ミャンマーのろう者にとっては、クリアしなければならない問題や課題が山積しています。

また、ミャンマーでは、障害者団体間での連携、協力がほとんど見られません。日本では、各障害者団体が必要に応じて、非常に良い連携を取っていると感じました。こういった部分も、ミャンマーは日本を見習って行くべきだと思います。

最後に

日本では、色々な研修で知識を得ただけでなく、沢山の思い出を作ることができました。

ミャンマーでは、ろうの友人同士で旅行に行くという経験はほとんどありませんでした。家族での旅行は、もちろん楽しいのですが、やはりコミュニケーションが思うように取れず、少し寂しい思いをすることもありました。しかし、日本で初めてろうの友人たちと観光に出掛け、色々なものを一緒に見て、手話で分かち合うことができました。それは、とても楽しい時間で、一生の宝物となりました。

花や銀杏並木のような綺麗な景色をたくさん見て、美味しい物を沢山食べました。日本食といえば寿司を思い浮かべる方が多いと思いますが、私の場合は、ウナギです。私が食べたウナギは絶品でした。

ミャンマーに帰国後は、ミャンマー手話を教える技術をより磨き、ろう児に適した方法で指導して行きたいと思っています。

また、ミャンマー手話が、ミャンマー語と同等の言語となるように、手話の語彙の拡充を図り、それを本にまとめたいと考えています。

日本での研修でお世話になったダスキン愛の輪基金の皆さま、日本障害者リハビリテーション協会、戸山サンライズの皆さま、また、研修でお世話になった全ての皆さまに感謝いたします。本当にありがとうございました。

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